『天気の子』論

 『天気の子』をみた。新海誠セカイ系をアップデートしていない。『天気の子』の森嶋帆高は、いわゆるセカイ系の主人公と同様に「キミ」か「セカイ」かという選択に悩まされるが、その二者択一が成立する条件それ自体は問題化されることはない。なぜ「セカイ」と「キミ」を対置することができ、またその選択権が「ボク」にあるのか。それらに対する批判=批評は『天気の子』の物語内だけでなく、その外部であるレビューにおいてもほとんど見受けられない。

 やや一足飛びに、そして(俗流)社会反映論的に言えば、セカイ系は所与の条件としてある種の「もっともらしさ」を持って受けいられ、言うなればセカイ系の空気(系)化とでもいうべき事態が起こりつつある。このような「セカイ」であれば、セカイ系の更新自体そもそも求められていないと言わざるを得ないだろう。そこにおいて求められるのはセカイ系の「アップデート」ではなく、より国民に膾炙するための「マイナーチェンジ」である。『天気の子』においてもそのような修正は確かに施されている。それは宮沢賢治との切断という点に見いだされる。

  本稿の要旨は『天気の子』における「自然」はアントロポセンだかなんだかではなくベタに宮沢賢治なのではないか、という点にある。『天気の子』で天野陽菜は『風の又三郎』的に宙を舞うし、劇中の水滴で出来た魚は宮沢賢治の詩に出てくる成層圏に住む生物を想起させる。詩の名前は忘れてしまったが、池澤夏樹の『言葉の流星群』に書いてあったはずなので誰か確認して欲しい。そんなことはともかく、印象論に過ぎないと言えばそれまでなのだが、そうであっても『天気の子』に散りばめられた宮沢賢治的な意匠は看過しがたい。

 もちろん、宮沢賢治という名前を挙げればすぐさま鼻白む向きもあるだろう。セカイ系宮沢賢治の関係性という論点は、その連想の安易さゆえ繰り返し語られてきた。おそらく宮沢賢治の理想主義的な作風がセカイ系的なロマンティシズムとダブって見えたのだろうし、実際、新海誠の卒論が宮沢賢治だったのもあり、その距離は意外と遠からずで確かに煮え切らない関係ではあった。しかし『天気の子』を経過した今となっては、それは完全な誤りである。私の考えでは、新海誠は『天気の子』で、宮沢賢治にあえて近接することでその完全な切り離しを図ろうとしている。ここで新海はセカイ系セカイ系でないものを丁寧に線で引き直している。

 それでは新海誠が嫌悪し『天気の子』において修正された宮沢賢治的なものとは何だろうか。例えば『銀河鉄道の夜』においてジョバンニが発する「ほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」という一文を見てみよう。これは明確に『天気の子』の攻撃対象の一つであるが、その前にこの短い文章がそもそも矛盾していることを指摘する必要がある。ここでいう「みんな」には「僕」が含まれていない。「百ぺん灼」かれるという負債によって「僕」を「みんな」の位相から引き剥がし、「僕」を除いた偽の全体性を目指す「人柱」的思考。それは逆立するファシストたる「僕」を構造的に生み出す。このアイロニックでナルシスティックな思考回路こそ『天気の子』において批判されている。『天気の子』をみたのなら、このジョバンニの思想がそのまま天野陽菜に対応しているのがわかるだろう。

 宮沢賢治の病は自身とセカイを同一の地平にある交換可能なものとして見てしまうところにある。セカイの「人柱」たることを切望するジョバンニ(宮沢賢治)=天野陽菜的な自己愛。そうではなく、より「健康」的なセカイの在り方を発見すること。これがセカイ系の延命策として掲げる『天気の子』のミッションである。そのためには天野陽菜の幸せを全体の幸福の始点に据えなければならない。しかし、この誰もが幸福な世界は東京一帯が半水没し、インスタントラーメンを美味そうに啜る天野陽菜の生活レべルまで落下することによって達成される。

 全員の幸福は全員の不幸によって成就する。その上野千鶴子的な楽観性に対する批判はここでは割くとして、「キミ」の選択の背後に恐ろしく「健康」的な平等の思想が裏打ちされていることを指摘しなければならない。「キミ」を選んだとしても待ち受けているのは「セカイ」の崩壊ではなく、全員が平等な「セカイ」であると丁寧にエクスキューズが用意されているのだ。この親切設計は更なるセカイ系作品の活性化につながるだろう。

 全員の平等という理想のもと一人を救うこと。言い換えれば、「キミ」への感情移入を大文字の公平性に後押しされること。これこそが『天気の子』で修正されたセカイ系の「マイナーチェンジ」の正体だ。これが昨今のアイデンティティポリティクスの隆盛に対し共振的に見えるのははたして穿ちすぎだろうか。