雑感

 『シンセミア』冒頭における鳥除けの空砲と隈元光博による射撃の同期。それは単なる銃声のカムフラージュではなく、神町を刻む一定のリズムに乱調を潜行させている。それ以降、神町には定刻通り銃声が反復されることとなり、あとはケイオティックな崩壊をただ待ちさえすればいい。潜行すること、ハックすること、このことはかつて宇野常寛の戦術でもあった。

 しかし、ホリエモンの税金払えの文言の前では絶句するしかない。ジジェクはハック的なものに対してかすり傷程度で喜ぶんでんじゃないよと言い放ったがそもそもかすり傷にもなっていない。そしてジジェクは、同じ本の最後に共産主義はそれが未だなしえてないからこそ常に新しいと付け加える。これは単にアジっているだけだ。 

 宇野常寛の話に戻ろう。私が立教で宇野の講義を受けていた頃ーその講義は本当にひどいものだった。立教生はモグリが多いから自分達の席がないのだと騒ぎたて、壇上のスクリーンにうつされたTwitterには毎回クソリプが飛び交っていた。そして、その立教生達の反応はあまりにもアナロジックに、当時トランプ政権誕生により色めきだつ「排外主義」的世相と対応していたー学生のレベルの低さに辟易していたであろう宇野は、講義の後半にはほとんど学生に対し敵対的な態度を崩さなかった。かくいう私は批評とかよくわからんなあと思いながらもイラつく宇野の話を聞いていた。実際、講義もかなり休んだ。

 ただ、よく覚えていることがある。 何回目かの講義で宇野は村上春樹の話をしていた。宇野はその時、私たちに『海辺のカフカ』を読むのをすすめた。一応文系崩れの私はそれを読んでみたもののあまり面白いとは思えなかった。正直拍子抜けだった。

  のちに私は宇野自身が『海辺のカフカ』をウェルメイドと評していたのを知る。 確かに『ゼロ年代の想像力』や『リトルピープルの時代』の作者として『海辺のカフカ』という選択は全く正しいといえるだろう。ただ、もっとベタに『世界の終わり』か『ねじまき鳥』の方が圧倒的に面白いのだからそれらをすすめてくれればいいのにと思ったのだった。

 以上、これは私から宇野への「クソリプ」である。断っておくが.『海辺のカフカ』という選択に宇野の全てが結集しているなんて微塵も思っていない。オチもない。