『クリードー炎の宿敵』論

 

 ようやく観たので『クリードー炎の宿敵(以下、クリード2)』 について書きたい。

 まず、『クリード2 』におけるロッキー・バルボアの登場が不気味である。それはこのようなものだ。試合前の控え室、アドニスに対しロッキーが語りかける。一瞬、私たちは画面中央の男をロッキー・バルボアと認識する。しかし、その男は誰でもない。ロッキーの声は画面外から発せられている。カメラは旋回し、アドニスの傍らで生気なく佇むロッキーを映す。

 このシーンはロッキーがすでに聴覚的な存在であることを予言している。その身体はもはや入れ替え可能であり、ロッキーはほとんど亡霊的に声のみで偏在している。不可視のものが可視化されていくという有名なハリウッド映画史の見取り図があるが、『クリード2』におけるこの亡霊の表象は反動的ですらある。

 当然ながら、亡霊が音を支配しているのならば私たちは耳をふさがなくてはならない。それは『クリード』シリーズにおいて毎度毎度あのロッキーのテーマが流れること、それ自体が亡霊的反復である点に気付かなくてはならないということだ。私たちは嬉々としてあの音楽を歓迎してはいけない。ここまできて、アドニスの妻であるビアンカが「聴覚」障害を持つという配置の意味がわかる。彼女はその障害によってロッキーの物語を無自覚に断ち切ってしまう。ヴィクター・ドラゴとのリベンジマッチにおける入場曲が彼女によるR&B風の歌唱であったことを思い返してほしい。その切断性には目を傾けなければならない。

 こういった見方があまりに図式的すぎるというのも事実だろう。障害の肯定的評価に付随するグロテスクさもさることながら、切断といっても簡単に切断できないことこそが亡霊が亡霊たるゆえんである。これで本当に除霊が完了したとは言いがたい。

 ただ、こうも言えるかもしれない。『クリード2 』にはもう一つの無音=除霊が用意されている、と。それは前述したヴィクター・ドラゴとのリベンジマッチの最中に生じる。そもそもボクサーに耳をふさぐ余裕はない。その両腕は眼前の敵を倒すことにのみ使用され、アドニスはセコンドのロッキーや観客の叫声を絶えず受け止め続けなければならない。しかし、ラウンドを重ね疲労が限界に達し、身体の処理できる情報量を完全に飽和したその瞬間、アドニスに一瞬の無音が訪れる。この、いわば「加速」的な無音への導きに私たちは賭けられるか果たして。