『クリード-チャンプを継ぐ男』論

 

 『クリード-チャンプを継ぐ男』(以下、『クリード1』)を見た。2は見ていないので色々間違っているかもしれないが、そのあたりは若干多めに見て欲しい。先に手の内を明かそう。『クリード1』を単なる『ロッキー』のスピンオフと片付けるのは早計に過ぎる。そこには『ロッキー』は名-固有名の物語であり、『クリード1』は姓-血縁(共同体)の物語であるという明確な差異があるのだ。

 物語はアドニスの転職から始まる。伝説のボクサーである「アポロ」の非嫡出子アドニス・ドニー・ジョンソンは、エリートリーマンとしての生活を捨て父親の影を追うようにプロボクサーの道を志す。ただ、アドニスは偉大な父親の後を継ごうというような優良児的純粋まっすぐ君ではない。そこにはある種の鬱屈を抱える男がいる。たとえば、アドニスはデビュー戦で「アポロ」の息子であることを隠そうとするが、それはアドニスは「アポロ」の息子としてではなく、あくまで「アドニス」としてその試合を始めたいがためである。

 対戦相手のトレーナーによるアウティングによって、その試みは失敗してしまうが、少なくともアドニスはその時そう思っていたはずだ。少なくとも、と留保した点には注意が必要である。なぜなら、その後、この映画は「アポロ」の血である「クリード」の姓を受け入れること、それをアドニスの成熟として描こうとするからだ。つまり、クリードの姓を伏したのも、すべて単なる「否認」として片付けようとする。言い換えれば、父親殺しの不可能性と微温的な共同体主義がセットになり、それらが啓蒙の皮を被りながらこの映画を支配する。

  アドニスにのしかかる「クリード」という姓=共同体はあまりに重い。そのせいで、アドニスは「ロッキー」や「アポロ」のような固有名にはなることはできない。 ではなぜ共同体にそこまでの重量があるのか。その重量は何によって決まるのか。そして、そもそも相手トレーナーによるアウティング事案はなぜ起きえたか。 まずここからいこう。トレーナーによる暴露が起こった理由はただ一つ、視聴率が上がる為である。ラストを飾る対コンラン戦でもアドニスの養母メアリー・アン・クリードがそのテレビ中継を「見続ける」ように、『クリード1』はボクシングとテレビの関係を執拗に描く。それは少なからず広告的である必要があるし、資本関係から逃れられない。

 そうであれば、「クリード」という姓の重みも理解できる。アドニスの苦悩は十分に広告的だ。スーパースターの父、それを乗り越えようとする息子、そして織り込み済みの失敗、このような「物語」を視聴者は欲望する。それらをつなぐ「クリード」という紐帯。資本主義と結びついた血縁の物語。ただ、思い出して欲しい。アドニスがその姓を伏したのはこの資本主義=物語をキャンセルする為ではなかったのか。そうであれば、アドニスは間違いなく映画を裏切る必要があった。

  この世界では死者は忘れ去られるまで生き続けてしまう。アドニス自身がYouTubeで亡き父であるアポロの試合を見ていたのは示唆的だろう。YouTubeで亡霊としてアポロは生き続けるし、クリードの姓のアウティングは視聴者が増えるから行われる。  死者も共同体も資本主義と相性がいい。その意味で資本主義に対し、死を差し向けるボードリヤールはバカだ。資本主義と死者が結びついてしまったのなら、それを(再度)殺すには、資本主義ではないルールで行われる必要がある。もしアドニスがファイティングポーズを崩していないとしたら、父殺しでない方法で父を、「アポロ」を殺さなくてはならない。姓を持たない子供たちを死者から守るために。