『トゥルーライズ』論

 

 友人による評価は芳しくなかった。前記事を書き終えた後、友人から講評のメールが送られてきたのでその内容を記す。

 彼によれば、そもそも、『言の葉の庭』論の導入部である私語りからして気に障るらしい。僕の言ったことをそのまま書けば良いじゃないか、なぜ君の自分語りに還元されるのかと、幾分か怒りを込められそこには書き連ねてあった。

彼は続けて、私によって再構成された文章では記事に対する彼の「生」の批判的意図をつかむことができないので、このメール自体をブログに転載せよと要求した。これは少々乱暴な意見にも思えるが、彼は私の信頼する友人の一人であり、彼の意見には有効性のあるものも数多いということもまた事実である。実際、彼による軌道修正によって救われたのは一度や二度という話ではない。 

  きっと、彼は今回も、このタコ壺化したブログに良い効果をもたらしてくれるだろう。 私はそう思っている。以上の理由から、友人のメールを転載することに決めた。なお、全文提示するよう彼は指示したが、文量やブログの体裁を加味した上で、一部抜粋という形を選ぶことにした。

 

(中略)『言の葉の庭』を歴史修正の物語と捉え返し、そして『君の名は』へいくというのが君の筋書きか。
なるほど確かに、新海に歴史修正的な傾向があるのは認めることができるだろう。
しかし、それはむしろ、新海が柄谷から受け継いだものじゃないか。君は強引に歴史修正と新海の保守性とを結びつけようとするが、それは眉唾だとしか思えない。というか、柄谷の継承者が新海というのが君の論旨なんだから、そもそも柄谷と新海を切ることはできないんじゃないか。柄谷的な問題設定が歴史修正を呼び込んでいることについて、君は考えようとしたのだろうか
(中略)古典的な話だけど、映画はどこまでいっても自意識のプロジェクションにすぎない。転移の問題だね。
君の左翼風な自意識のために、無理やり新海を保守のイデオローグに仕立て上げた可能性について、胸に手を当ててじっくり考えたらいいと思うよ。

 

  以降、執拗に私への嫌がらせじみた罵倒が続くのだが、キリがないのでこの辺りで切り上げることとしよう。

 

 

トゥルーライズ』論
 ポスト・冷戦はポスト・イデオロギーの時代だろうか。もちろん、そうではない。柄谷行人によれば、イデオロギーとは形式化のはてに見出す倒錯的な「自然」による形而上学、この思考である*1。何を言ってるのかよくわからないが要はそれが固有的であって人間には逃れにくいということだ。しかし、このような説明がなくとも、イデオロギーから逃れられないという主張自体は、現在、とても素朴に実感できる

  唐突だが、三田宗介の区分によると、1970年代後半から1995年までは「虚構の時代」とされる。そこでは、「アイロニカルな没入」というコミットメントが優勢になる。後述するが、簡単に言えばそれは「あえてベタに」大きな物語イデオロギーを信じるというナルシスティックな態度である。

  宇野常寛は、先ほどの三田(大澤)の議論を引継いだうえで、1995年以降は「アーキテクチュアルな没入」への移行が生じていると主張する*2。例えば、「電車男」に顕著なように、私たちは、アーキテクチャに支援されることで、消費者=動物としてベタな物語に耽溺できる。これが「アーキテクチュアルな没入」である。そこでは、「アイロニカルな没入」に要する自意識は必要とされない。アーキテクチャによって透明になること。しかし、アーキテクチャ化の徹底によってだれもがその構造に無自覚になるなら、私たちが気付く=反省することができるのは逆説的に自意識が炙り出された瞬間だけではないのか。Twitter上でのいわゆる「嘘松」的な対象への罵倒を思い出して欲しい。 だからこそ、私は「あえて」95年まで、つまり「虚構の時代」=「アイロニカルな没入」の時代に踏みとどまろう。「あえてベタに」の強度、つまり、自意識の強度についてもう一度考える必要がある。

 1994年の映画『トゥルーライズ』を扱う。この映画は時期的にも「虚構の時代」と重なり、内容においても「あえてベタに」物語回帰する好サンプルである。そして、より重要なのは物語回帰が引き起こす異様さを描き切っていることだ。

 

物語の要約を兼ねながら、論を進めていこう。

 

 

ハリー・タスカーについて
 アーノルド・シュワルツェネッガー演じるハリー・タスカーは、コンピュータ会社のセールスマンと大統領直属の国家保安組織所属のスパイという二重生活を送っている。彼はあくまで平均的なアメリカ人生活を志向し、妻と娘がいる。家族に対して軽々しく「私はスパイだ」と公言するわけにはいかない。ハリーは律儀にも自分がスパイであることを隠し通す。それゆえ、何も魅力のない普通のセールスマンである(と思われる)父を家族は嘲笑する。家庭環境は散々である。

 その「散々な家庭環境」のさらなる悪化によって、状況は決定的に変化する。それは妻であるヘレン・タスカ―の浮気未遂に結実する。 

 

ふまじめなハリー・タスカー

 あろうことかヘレンの浮気相手は自らをスパイと騙る軽薄な男だった。激怒したハリーは、スパイ捜査と偽り、組織の力を使ってヘレンの浮気を調べ上げる。結局のところ、ヘレンは自称スパイと性関係を結んでいないことが判明するが、ハリーの怒りは収まらない。ハリーはヘレンを尋問室に連行し、本当に夫を愛しているのか問いただす(なお、この時、ハリーはミラーガラスの向こうにいるので、ヘレンはハリーの姿を見ることはできない)。ただ意外にも、ヘレンは夫への愛を告白しハリーは落ち着きを取り戻す。そして、頭を冷した彼は、そこに思わぬ収穫が隠されていることを見逃さなかった。

 それは、ヘレンがスパイという大きな物語に強く惹かれているということだ。自称スパイにあっさりと騙されたことが象徴するように、彼女は、国家のために命を懸けるという前時代的な物語にご執心だったのだ。ヘレンの所望を察知したハリーは、彼女に対し、スパイ捜査に協力して欲しいとの虚言を吐く。妻に課せられたミッションはなるべくセクシーなドレスを着てホテルに潜入し、部屋で待っている「ある男」を誘惑するというものだ。もちろん、「ある男」とはハリー自身であり、そこで自分がスパイだとカムアウトし、夫婦の愛を取り戻すというのがハリーの腹である。

  ヘレンは指令に従い、というかノリノリでホテルに到着する。スパイさながらミッションを遂行し、「ある男」の前で下着姿でポールダンスを踊る。ここで一度踏みとどまろう。ハリーが犯した二度にわたる職権乱用、この公私混同は考慮に値する。先ほど述べたようにハリーは律儀にも二重生活を守ってきた。一方では、平均的なアメリカ人としての私的な生活を、他方では国家プロジェクトであるスパイとしての隠匿かつ公的な生活を。

 しかし、今のハリーはふまじめさに満ちている。ハリーは、私的な夫婦間の愛の問題に、公的なスパイ活動という職務を混入させることで、私的な問題の解消を試みる。まじめであったはずのハリーがやることとは到底思えない。

 

神学者ハリー・タスカ―

 ハリーの職業意識の希薄さは彼の本音を浮き彫りにしている。他のスパイと同様に、彼もまたスパイという大きな物語を信じていない。厳格な公私の区別など、既になし崩しにして構わないことを彼は十分に知っている。『トゥルーライズ』のスパイ達には奇妙な浮遊感が漂っている。実際、 ケイトのダンスシーンまでに具体的なスパイ活動はほとんど描かれていない。冷戦後、いわゆる「歴史の終わり」的な資本主義の完全勝利の「後」で、不安定に生きるスパイ達の日常を私たちは覗き込んでいる。 

 少し整理しよう。ハリーによるスパイの私的利用が明らかにしたように、彼もまた、本当は、スパイという大きな物語を信じていない。よって、公私の峻別を遵守する=まじめなハリーは、すでに再帰的な判断のもとでその態度を選択しているということになる。彼は歴史の終わりにおいてスパイ的慣例を保守すること、つまり、「あえてベタに」信じることを選択した。しかし、いや、それゆえに、ただ「ベタに」のみ信じるヘレンを引き寄せてしまう。「あえてベタに」信じるという選択は、単なるベタな信仰へと容易く転化する。 

 この点については少し説明を付け加える必要があるだろう。「あえてベタに」信じることが公私の峻別=まじめという態度に現れる。ここまでは良い。しかし、そうであれば、公私の峻別の融解は「ベタに」信じるのではなく、「ベタに」信じないへと向かうこともあるのではないか。しかし、それはあり得ない。ハリーが「あえてベタに」信じるその瞬間に、相対化した世界で、ただ信仰のみによって立つことを選択しているからだ。それは「ベタに」信じること(神学)と同型であり、すでに神学へと足を踏み入れている(否定神学が神学であること)。「ベタに」信じるヘレンの一押しによって、ハリーはその全身を物語に委ねてしまう。 

 

 操転するハリーと『トゥルーライズ

 さらに物語を進めよう。示し合わせたように、ハリーとヘレンのいる部屋へとペルシャ系テロリストが襲撃を仕掛ける。映画はベタなスパイ物語へと降下していく。私見だが、最初私はこのテロリストをハリーの妄想だと錯覚した。『トータルリコール』を想起させるように、このシーンはハリーのパラノイア的な症候にどうしても見える。もしそのように解釈するならば、それは映画「トゥルーライズ」自体の存在論的根拠がハリーの自意識へと委託されたということである。つまり、この襲撃以後、ハリーと映画『トゥルーライズ』は常に共犯的であり、映画=世界と同一化したハリーはその全能感ゆえ操転する。

  ペルシャ系テロリストという点に注視しよう。『トゥルーライズ』においては、冷戦後の「敵」として中東が選択された。彼らの目的は、ペルシャ湾における米軍の即時撤退であり、イデオロギーの相違に力点はない。また、その背後には、テロリストを支援する古美術商のジュノ・スキナーが居座る。彼女はネオリベ的なものを象徴している。例えば、彼女はこのような台詞を吐く。

 

あいつら(テロリスト)は資金を持ってて私も大金を稼げるのよ。

やつらの主義主張なんて無関係、あなたの主義も―無関係。

 

 ネオリベノンポリだと主張するつもりは更々ないが(それが容易に国家主義と結びつくように)、この二通りの人物は明らかにポスト・冷戦における「敵」であることを強調される。 しかし、そのような生ぬるいノンポリ環境を、ベタに物語回帰したハリー=『トゥルーライズ』は許さない。二人の共犯によって、テロリスト達が甲斐甲斐しく大事にするミサイルは「ソ連原子力爆弾」へと変化を遂げる。物語世界はイデオロギーが最も快活に機能した冷戦期へと無理やり引き戻されてしまう。イデオロギーの空所に補充される過去の遺物。それは、ネオリベコミュニストへと見立てるような法外な矛盾をも可能にする。 

 

 

ソ連原子力爆弾」の本来的使用法について

 やや補足的になるが、重要なので付け加えておく。

 すが秀実によれば、ソ連における原爆開発は、実のところアメリカとの平和共存路線を狙う張り子の虎である*3。その日和見主義的な原爆保持はのちに中ソ論争を巻き起こす火種となるのだが、しかし、『トゥルーライズ』においては、実際に(変な言い方だが)原爆は撃ち落とされる。つまり、言い換えれば、抑止力として「あえて」保持していた原爆が「ベタに」使用されている。『トゥルーライズ』において原爆が辿った軌跡は、ハリーにおける単なる「ベタ化」への移行と相似形を描く。「あえて」という留保など吹けば飛ぶようなものだと、『トゥルーライズ』ではハリーと原爆を通して二重に語られる。それでは、ベタに投下された「ソ連原子力爆弾」はハリーに、そしてアメリカ全土に致命傷を与えることができるのか。

 単刀直入に言おう。それは不可能である。なぜなら、ハリー=『トゥルーライズ』は、歴史の終わり=資本主義の完全な勝利という「物語」をもう一度繰り返せば良いからだ。そして、たとえ原爆が発射されたとしてもアメリカは無傷であったという反実仮想上における変更を同時に付点していることを見逃してはならない。このような「手直し」はこうあったかもしれないという恐怖によって支えられる。それはアメリカの原爆恐怖症を浮き彫りにしているのではないだろうか。隠すことはそれを露わにすることでもある。

 

最後に

 『トゥルーライズ』は、ハリウッド的であることを自己目的的に追求するかのごとく展開し、閉じていく。この予想より長くなってしまった文章も終わりにしなければならない。

 ベタな物語回帰は避けようがない。しかし、その物語にはいくつかの変更がある。その変更点に漂う恐怖の匂いを感じ取ること、このことがある種、露悪的に物語を演じて見せたキャメロンの処方箋ではないだろうか。「虚構の時代」に留まることは恐怖について考えることである。

 

 

*1 柄谷行人『言語・数・貨幣』講談社(1983)

*2 宇野常寛ゼロ年代の想像力』ハヤカワ文庫(2008)

*3 すが秀美『反原発の思想史ー冷戦からフクシマへ』筑摩書房(2019)

 

ジェームズ・キャメロントゥルーライズ』    

    ライトストーム・エンターテインメント(1994)