『言の葉の庭』論

 

 

 新海誠について書いてみようと思ったのは、年下の友人のアドバイスによるものだった。彼の意見を要約すると「お前のブログつまんねえよ。支離滅裂だしよ。てかもっとみんな見てるやつ書けよ馬鹿。あれだろ?メジャーなやつで書くの怖いんだろ?」といったものだ。実際はこの内容を1時間にわたって詰問された。もちろん、私のブログが面白くないこと、その責は私にある。けして扱った映画に問題があるわけではないだろう(今考えれば『グレムリン』も『大日本人』もそこそこ有名だと思うが、その時の私はもう早く家に帰りたいなぐらいしか考えられなかった)。

 しかし、そこまで言われて何も言い返さないのも癪だった。何か形勢逆転のチャンスはないか。彼の流れるような叱責に生じる一瞬の間隙、そこに特大の反論をぶつけることに私は集中した。そして、その瞬間は訪れた。

 「じゃあ何を扱ったらいいんですか」声は震えていた。ただの逆ギレだった。だが、その返答は私の反論を見越していたかのように即座に発せられた。
 「あ?そんなん決まってんだろ。新海だよ」

 

 

 

言の葉の庭』論

 はじめに新海誠作品に共通する主題を確認する。目新しいものは何もないので飛ばしてもらって構わない。もちろん、それはすれ違いである。新海作品に登場する男女は柄谷ばりのコミュニケーションの不可能性に悩まされる*1。柄谷という固有名詞をやや唐突に思うかもしれないが、そこにはなにも飛躍がない。私は国立新美術館の「新海誠展」で、新海の影響を受けた本として『日本近代文学の起源』が挙げられたのを確認している。

 新海作品のキャラクター達は、他者とのコミュニケーションの不可能性、言語ゲーム、これらのある種古びた問題設定を徹底的に勉強し尽くしている。互いを強大な他者と見積もり合い、命がけの飛躍を繰り返す男女はすれ違うことしかできない。すれ違わないとしたらそれは奇跡的といっても過言ではない。

 だとすれば、本質的に新海誠作品とテクノロジーは相性が悪いのではないか。
周知のように私たちはつながりすぎる世界に生きている。私たちはネットによって誰とでも0距離でつながることができる。もちろん、簡単にコミュニケーションできるからといってそれが通じ合っているとは限らない。しかし、その試行回数はテクノロジーによって爆発的に増加した。私たちの世界は他者との「距離」を削減するのに成功したといえる。

 それでは、そもそも他者の成立自体が困難な世界で、柄谷的な他者を継承するにはどうすれば良いのか。新海の解答は、「距離」を無理やり捏造する、というものだ。

  例えば、『ほしのこえ』では、男女は8光年彼方へと引き裂かれる*2。そのような状況ではメールを受信するのに9年間の時差が生まれてしまう。新海がこのSF的なガジェットを使用したのは、おそらく「距離」を捻出するためだ。コミュニケーションを妨げる制限や障害のようなものを意図的に導入しなければ、その恋愛は既にリアルではない。(しかし、そうであれば『秒速5センチメートル』における東京―栃木間の「距離」はあきらかな主題的後退ではないか*3)。

 また、新海作品に現れる「距離」は時間的差異や空間的差異だけではない。二次元と三次元との、キャラクターと背景との、キャラクターと観客との共役不可能性、つまりインターフェイスの次元での「距離」も観測することができる*4。このように、新海は「距離」を設定することで周到につながらなさを捏造する。そこに、リベラリズムグローバリズムへの抵抗を企てる新海の保守性を見出すこと不可能ではない。

 『言の葉の庭』についてだった。

 『言の葉の庭』においても「距離」の主題は健在だ。それは一見、先生と生徒という関係に現れている。この先生と生徒という関係は『探求Ⅰ』における言語ゲームのたとえ話そのままであり、その意味では最も柄谷に忠実な作品といえるのだが、しかし、偉大な保守作家新海はそれを巧妙にずらしている。そのことに触れる前に、簡単に物語を要約する。

 高校生のタカオは靴職人を目指しバイトと靴製作の勉強に日々追われている。タカオは 雨の日には必ず一限をサボり新宿御苑へ向かう。しかし、その日はいつもと違い、ビールを飲み古文を唱える怪しげな女がいた。後にわかるのだが、その女はタカオの通う高校の国語教師ユキノだった。ユキノは女生徒によるいじめと、同僚との破局により休職していた。ユキノと仲良くなったタカオは、そのいじめた女生徒にびんたを食らわす。その後、いじめ女生徒の連れにボコられたタカオは新宿御苑でユキノと再会し、雨が降りしきる中、ユキノの自宅へと向かう。

 タカオは、ユキノが自分の通う高校の教師であることを後天的に発見する。タカオははじめ、ユキノに対し朝から飲酒する変な女として接していた。しかし、ユキノを学校で目撃することでその関係性は変化してしまう。 ユキノからユキノ先生への不可逆な転身は、タカオに疎外をもたらす。つながることのできたユキノはもういない。ほとんど怨念にとりつかれたタカオは、物語の終わり近くで、ユキノ先生に罵声を浴びせ痛めつける。

 ユキノ先生からユキノを取りもどすというタカオの願い、しかし、ここには倒錯が生じている。そもそも、タカオが通じ合えたと信じるユキノとは何者なのだろうか。

 例えば、タカオの振るったびんたについて考えてみよう。タカオは女生徒に暴行を加えるが、それは単に義憤に駆り立てられたからではない。事態はもう少し入り組んでいる。もしいじめが存在しなければ、ユキノ先生はユキノとしてタカオの前に現れることはないからだ。ユキノ先生からユキノへの転身は、女生徒によるいじめによって起こる。そして、タカオはその痛みから生まれたユキノを愛している。タカオとユキノの恋愛はユキノ先生の痛みを前提にしなければ成立しない。

 ユキノ先生の痛みをなかったことにはできない。しかし、ユキノを愛するという意志は、ユキノ先生の痛みに対する肯定へと転化してしまう。そのことにタカオは懊悩する。悩みに悩みまくり、混乱極まるタカオは女学生をびんたしユキノ先生に罵声を浴びせるという暴挙に出る。

 これより加害者タカオは誕生する。しかし、そんな困窮した状況にこそ、タカオは活路を見出していたのではないか。タカオは、ユキノ先生が過去に受けた痛みに類する暴力を無差別に繰り返す。ユキノ先生がユキノとなる瞬間を再演することによってユキノを取り戻そうとする。過去へと遡り、ユキノに生じた倒錯を乗り越えること、これがタカオの企図だ。

 『言の葉の庭』における「距離」とは時間である。先生と生徒の「距離」は本質ではない。もちろん、現在から過去に受けた傷に到達することはあまりに不可能だし、それを語るのは荒唐無稽に響く。 しかし、タカオはそれを願う。物語ラスト、タカオがユキノ先生に罵声を浴びせた後、二人は抱き合う。奇跡的にタカオは過去に到達し、ユキノ先生は再びユキノへと転身する。タカオは跳躍に成功したのだ。歴史のタガが外れる音を残して。

 

*1柄谷行人 『探究Ⅰ』 (講談社学術文庫、1992)

*2新海誠ほしのこえ』(配給 MANGAZOO.COM 2002)

*3新海誠秒速5センチメートル』(配給 コミックス・ウェーブ 2007)

*4石岡良治、三浦哲哉編 平倉圭、土居伸彰、入江哲朗、畠山宗明著『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』(フィルムアート社、2018)

 

新海誠言の葉の庭』 (製作 新海クリエイティブ、コミックス・ウェーブ・フィルム、2013)