『大日本人』論

大日本人』。前エントリーで扱った『グレムリン』同様、隠喩ないし換喩にまみれた映画だ。

 

松本人志が演じる大佐藤大自衛隊を、そして、永遠に主体化できない戦後民主主義男性を、ウルトラマンを彷彿とさせるスーパー・ジャスティスはアメリカを、それにボコボコにやられる赤い獣は朝鮮半島や中国を、といった陰謀論的見立てを、私たちは脊髄反射で理解できる。 

 

しかし、そもそもなぜこんなにもわかりやすいのか。示されるものとその意味の対応がなぜこうも明瞭なのか。そのことを考えるために、『オーバー・ザ・シネマ―映画「超」会議』での畠山宗明の発言を少し長くなるが引用しよう*1。

 

(不完全了体の時間について)まだうまくまとまっているわけではないんですが、一つには推論が発動する、せざるを得ないような時間ということです。(中略)映画理論ではそういう迷いの持続を切り落として、もの=実在の認知が瞬時に成立する、と考える。しかし、私たちは実は映画を見ているとき、何が見えているかはっきり理解していることのほうが、実は少ないと思うんですね。
もうひとつ重要なのは「事後性」ということです。(中略)20世紀がもたらしたのは、わかっているものが謎になる、見えてしまったものに事後的に問い訪ねざるを得ないという不安定な状態だったと思うんですね。陰謀論というのはこうした苦しい状態に対するバックラッシュ(あるいはにもかかわらず瞬時に「わかって」しまうものとしての類型)として考えることができるのではないか。

 

 

陰謀論的映画には「不完全了体の時間」、つまり、そのものが何を意味しているか判断することのできない時間が存在しない。そこには「不完全了体の時間」を誘発させる20世紀的な「不気味なもの」がない。陰謀論的映画はむしろ「映画理論」に似ている。陰謀論的映画は「映画理論」同様、映画におけるリニアな時間の進行とは別個に意味の決定が行われるからだ。

 

先ほど述べた『大日本人』における直接的過ぎる隠喩ないし換喩(大佐藤大自衛隊の対応、スーパー・ジャスティスとアメリカの対応といったような)が陰謀論的特徴を帯びているというのは明白だろう。私たちはそれが何を意味しているか瞬時にわかってしまう。 

 

確かに、そういったわかりやすすぎる『大日本人』における構造の幼稚さは疑いようがない。80年代であれば物語批判で一発で片付けられるだろう。しかし、私はこれを肯定したい誘惑にかられている。 

 

その理由は前回の『グレムリン』論と関連している。

 

ontei.hatenablog.com

 


私はそこで、『グレムリン』の分析を通して、クリスマスがアイロニストになることと成熟を同一化させる祭りであると結論付けた。 もちろん、そういった成熟観は既に陳腐である。渋谷ハロウィンは成熟の虚構性が完全に剥ぎ取られたことを象徴する事件だった。 

 

しかし、そんな時代でも成熟「のようなもの」が存在しているのではないか。もしその萌芽があるのなら記述しなければならない。私見だが、『大日本人』には確かに別様の成熟「のようなもの」が描かれている。ただ、『大日本人』におけるそれは一般的な意味での成熟とは決定的に異なっている。


それは巨大化である。大佐藤大が獣と戦うための術はただでかくなるだけである。『大日本人』における巨大化はその縮尺の変化のみであり、それはウルトラマン仮面ライダーのような「変身」とは切断されている。 

 

この点は注目に値する。例えば、宇野常寛ウルトラマン仮面ライダーの「変身」を戦後民主主義男性における成熟の問題と捉えるように、「変身」と成熟には強い連関がある*2。


しかし、巨大化した大佐藤大の顔面は、そのまま松本人志の顔面と連続している。大佐藤(=松本人志)は変身=成熟しない。


そうした大佐藤の非-成熟は有名な大塚英志による「アトムの命題」とも異なる*3。「アトムの命題」に簡単な説明を加えると、それは成長(成熟)できない記号的身体を通じて、逆説的に人間的な成長(成熟)を描くという戦後漫画特有の主題である。 

 

大日本人』における非-成熟は単に成熟しない。それは、そもそも成熟を目指さない。大塚にあっては非-成熟は未-成熟として成熟の問題系にかすめ取られるが、『大日本人』の非-成熟は非-成熟として自足する。 

 

この自足する形態はおそらく冒頭の陰謀論と関係がある。陰謀論はその感染者にとって一つの真理である。それらは真理であるからこそ真理であるという形で、あらゆる現実と独立して生き続ける。陰謀論者は陰謀論を糧にして自らの身体を極限まで巨大化させる。

 

最後に、簡単な思考実験のようなものに付き合ってもらいたい。

 ここに巨大化した身体と成熟した身体がある。果たして私たちは、本当にそれらを見分けることができるのだろうか。

 

 

*1 石岡良治、三浦哲哉編 平倉圭、土居伸彰、入江哲朗、畠山宗明著『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』(フィルムアート社、2018)

*2例えば、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎、2011) における「皮肉にも、男子の成長願望とナルシズムを『正義』という回路によって記述することを商業的に宿命付けられたヒーロー番組」といった発言

*3大塚英志アトムの命題手塚治虫と戦後まんがの主題』 (アニメージュ叢書、2003)

 

松本人志大日本人』(吉本興業、2007)