『グレムリン』論

 

 12月25日。クリスマス。せっかくなのでクリスマスにまつわる映画によってこのブログを始めたいと思う。クリスマス映画の名作は数あれど、個人的には1984年の『グレムリン』は外せない。なぜなら『グレムリン』は、クリスマスとは何かを詳細に描いたメタクリスマス映画だからだ。

 あらすじを簡単にまとめよう。

 舞台はクリスマス。発明家のランダルは、息子ビリーへのクリスマスプレゼントとして、チャイナタウンの骨董商から、モグワイという生き物を譲り受ける。モグワイを飼うには「3つの約束」が必要だ。光に当てないこと、水にぬらさないこと、12時を越えて食べ物を与えないこと。ビリーはこの3つの約束を不意に破ってしまいグレムリンと化したモグワイ達はビリーの町を襲う。

 良く知られるように、この映画には、電化製品に潜むグレムリンが日本人の隠喩であるという半ば都市伝説じみた解釈がある。都市伝説とは言ったものの、実はかなり説得力のある解釈だ。例えば、映画館でディズニー映画を鑑賞し、ポップコーンを食べるグレムリンたちの姿は、自動車や家電を売りつけ、アメリカ人の日常圏を侵食する日本人をたやすく連想させるだろう。

 確かに、『グレムリン』に、日本人へのゼノフォビアが刻まれているというのはおおむね間違いではない。その説を後押しするように、スーパーマン国産車を愛し続ける時代遅れの老人や、国家的プロジェクトであった「発明」の矮小化を体現する主人公の父親(家庭用品しか発明できず、しかも失敗続き)といった「強いアメリカ」の失墜を象徴する人物も周到に配置されている。しかし、それでこの映画をとらえられたといえるだろうか。
 私はこの映画に少し異なる解釈を導入したいと思っている。そのためには、ビリーの恋人であるケイトの存在に注目する必要がある。

 ケイトは『グレムリン』の登場人物の中で唯一クリスマスを嫌悪している人物である。なぜなら、彼女には、父親がサンタクロースの仮装をし自宅の煙突に隠れていたところ、誤って足を滑らせ死んでしまったというエピソードがあるからだ(ほとんどギャグである)。つまり、ケイトは父の死と同時に、サンタクロースが実は存在しないという盛大なネタバラシをくらってしまったのだ。

 ここで、このブログをもし読んでいる人がいるなら思い出してほしい。あなたは「いつまでサンタさんがいると信じてた?」と誰かに尋ねたことはないだろうか。この言葉が意味するのは、サンタクロースの存在を認めるか否かによって、子供と大人が区別されるということだ。そして、より重要なのはサンタクロースが存在しないことを知ってしまったとしても、大人は声高にサンタクロースの不在を喧伝しないということである。むしろ、サンタの実在に疑いの目を向けるのは子供の方ではないだろうか。

 クリスマスは、この点において、他の祭りとは決定的に性質が異なる。一般的な祭りが日常から非日常の移行、つまり、大人から子供へと降りることであるのに対し、クリスマスは子供の前でアイロニカルにあえて信じ続ける大人たることを要求する。クリスマスは成熟の祭りであり、大人は大人でなくなることを禁じられているのだ。

 もう一度、ケイトへと視点を戻そう。ケイトに起こった悲劇とは、父親の死とサンタクロースの死を同時に迎えるという二重化された成熟の失敗である。ケイトは、本当の意味で大人になることができず、クリスマスという虚構性を身にまとうことができない。それは、彼女がアイロニーを持ちえないということに直結する。つまり、『グレムリン』という映画は、あえて虚構を信じるアイロニカルな態度の選択と成熟とを結びつけるクリスマスという装置を暴露している。『グレムリン』に描かれる強いアメリカの失墜は、アイロニーが無化されたクリスマスの失墜でもある。

 最後になるが、今日こういうニュースが流れていた。ドナルド・トランプが、7歳の少年に「まだサンタは信じてる?」と述べたそうだ*1。繰り返すが、クリスマスは成熟のための祭りである。

 

*1: 

www.newsweekjapan.jp

 

 

追記 

クリスマスを日常性の再強化と捉えなおすなら、2018年に起きた渋谷ハロウィンに顕著なクリスマスの相対的なプレゼンスの低下は何を意味するのか。

渋谷ハロウィンが祝祭性を帯びているのは疑いようがない。しかし、それは現実におけるという留保がつく。仮装によって虚構性を身に着けながらもトラックの転倒という唯物的な行為に向かったのは、虚構が現実に負けた瞬間だったのではないか。

 

 

ジョー・ダンテ 1984 『グレムリン』 アンブリン・エンタ―テインメント