『クリード-チャンプを継ぐ男』論

 

 『クリード-チャンプを継ぐ男』(以下、『クリード1』)を見た。2は見ていないので色々間違っているかもしれないが、そのあたりは若干多めに見て欲しい。先に手の内を明かそう。『クリード1』を単なる『ロッキー』のスピンオフと片付けるのは早計に過ぎる。そこには『ロッキー』は名-固有名の物語であり、『クリード1』は姓-血縁(共同体)の物語であるという明確な差異があるのだ。

 物語はアドニスの転職から始まる。伝説のボクサーである「アポロ」の非嫡出子アドニス・ドニー・ジョンソンは、エリートリーマンとしての生活を捨て父親の影を追うようにプロボクサーの道を志す。ただ、アドニスは偉大な父親の後を継ごうというような優良児的純粋まっすぐ君ではない。そこにはある種の鬱屈を抱える男がいる。たとえば、アドニスはデビュー戦で「アポロ」の息子であることを隠そうとするが、それはアドニスは「アポロ」の息子としてではなく、あくまで「アドニス」としてその試合を始めたいがためである。

 対戦相手のトレーナーによるアウティングによって、その試みは失敗してしまうが、少なくともアドニスはその時そう思っていたはずだ。少なくとも、と留保した点には注意が必要である。なぜなら、その後、この映画は「アポロ」の血である「クリード」の姓を受け入れること、それをアドニスの成熟として描こうとするからだ。つまり、クリードの姓を伏したのも、すべて単なる「否認」として片付けようとする。言い換えれば、父親殺しの不可能性と微温的な共同体主義がセットになり、それらが啓蒙の皮を被りながらこの映画を支配する。

  アドニスにのしかかる「クリード」という姓=共同体はあまりに重い。そのせいで、アドニスは「ロッキー」や「アポロ」のような固有名にはなることはできない。 ではなぜ共同体にそこまでの重量があるのか。その重量は何によって決まるのか。そして、そもそも相手トレーナーによるアウティング事案はなぜ起きえたか。 まずここからいこう。トレーナーによる暴露が起こった理由はただ一つ、視聴率が上がる為である。ラストを飾る対コンラン戦でもアドニスの養母メアリー・アン・クリードがそのテレビ中継を「見続ける」ように、『クリード1』はボクシングとテレビの関係を執拗に描く。それは少なからず広告的である必要があるし、資本関係から逃れられない。

 そうであれば、「クリード」という姓の重みも理解できる。アドニスの苦悩は十分に広告的だ。スーパースターの父、それを乗り越えようとする息子、そして織り込み済みの失敗、このような「物語」を視聴者は欲望する。それらをつなぐ「クリード」という紐帯。資本主義と結びついた血縁の物語。ただ、思い出して欲しい。アドニスがその姓を伏したのはこの資本主義=物語をキャンセルする為ではなかったのか。そうであれば、アドニスは間違いなく映画を裏切る必要があった。

  この世界では死者は忘れ去られるまで生き続けてしまう。アドニス自身がYouTubeで亡き父であるアポロの試合を見ていたのは示唆的だろう。YouTubeで亡霊としてアポロは生き続けるし、クリードの姓のアウティングは視聴者が増えるから行われる。  死者も共同体も資本主義と相性がいい。その意味で資本主義に対し、死を差し向けるボードリヤールはバカだ。資本主義と死者が結びついてしまったのなら、それを(再度)殺すには、資本主義ではないルールで行われる必要がある。もしアドニスがファイティングポーズを崩していないとしたら、父殺しでない方法で父を、「アポロ」を殺さなくてはならない。姓を持たない子供たちを死者から守るために。

 

 

『トゥルーライズ』論

 

 友人による評価は芳しくなかった。前記事を書き終えた後、友人から講評のメールが送られてきたのでその内容を記す。

 彼によれば、そもそも、『言の葉の庭』論の導入部である私語りからして気に障るらしい。僕の言ったことをそのまま書けば良いじゃないか、なぜ君の自分語りに還元されるのかと、幾分か怒りを込められそこには書き連ねてあった。

彼は続けて、私によって再構成された文章では記事に対する彼の「生」の批判的意図をつかむことができないので、このメール自体をブログに転載せよと要求した。これは少々乱暴な意見にも思えるが、彼は私の信頼する友人の一人であり、彼の意見には有効性のあるものも数多いということもまた事実である。実際、彼による軌道修正によって救われたのは一度や二度という話ではない。 

  きっと、彼は今回も、このタコ壺化したブログに良い効果をもたらしてくれるだろう。 私はそう思っている。以上の理由から、友人のメールを転載することに決めた。なお、全文提示するよう彼は指示したが、文量やブログの体裁を加味した上で、一部抜粋という形を選ぶことにした。

 

(中略)『言の葉の庭』を歴史修正の物語と捉え返し、そして『君の名は』へいくというのが君の筋書きか。
なるほど確かに、新海に歴史修正的な傾向があるのは認めることができるだろう。
しかし、それはむしろ、新海が柄谷から受け継いだものじゃないか。君は強引に歴史修正と新海の保守性とを結びつけようとするが、それは眉唾だとしか思えない。というか、柄谷の継承者が新海というのが君の論旨なんだから、そもそも柄谷と新海を切ることはできないんじゃないか。柄谷的な問題設定が歴史修正を呼び込んでいることについて、君は考えようとしたのだろうか
(中略)古典的な話だけど、映画はどこまでいっても自意識のプロジェクションにすぎない。転移の問題だね。
君の左翼風な自意識のために、無理やり新海を保守のイデオローグに仕立て上げた可能性について、胸に手を当ててじっくり考えたらいいと思うよ。

 

  以降、執拗に私への嫌がらせじみた罵倒が続くのだが、キリがないのでこの辺りで切り上げることとしよう。

 

 

トゥルーライズ』論
 ポスト・冷戦はポスト・イデオロギーの時代だろうか。もちろん、そうではない。柄谷行人によれば、イデオロギーとは形式化のはてに見出す倒錯的な「自然」による形而上学、この思考である*1。何を言ってるのかよくわからないが要はそれが固有的であって人間には逃れにくいということだ。しかし、このような説明がなくとも、イデオロギーから逃れられないという主張自体は、現在、とても素朴に実感できる

  唐突だが、三田宗介の区分によると、1970年代後半から1995年までは「虚構の時代」とされる。そこでは、「アイロニカルな没入」というコミットメントが優勢になる。後述するが、簡単に言えばそれは「あえてベタに」大きな物語イデオロギーを信じるというナルシスティックな態度である。

  宇野常寛は、先ほどの三田(大澤)の議論を引継いだうえで、1995年以降は「アーキテクチュアルな没入」への移行が生じていると主張する*2。例えば、「電車男」に顕著なように、私たちは、アーキテクチャに支援されることで、消費者=動物としてベタな物語に耽溺できる。これが「アーキテクチュアルな没入」である。そこでは、「アイロニカルな没入」に要する自意識は必要とされない。アーキテクチャによって透明になること。しかし、アーキテクチャ化の徹底によってだれもがその構造に無自覚になるなら、私たちが気付く=反省することができるのは逆説的に自意識が炙り出された瞬間だけではないのか。Twitter上でのいわゆる「嘘松」的な対象への罵倒を思い出して欲しい。 だからこそ、私は「あえて」95年まで、つまり「虚構の時代」=「アイロニカルな没入」の時代に踏みとどまろう。「あえてベタに」の強度、つまり、自意識の強度についてもう一度考える必要がある。

 1994年の映画『トゥルーライズ』を扱う。この映画は時期的にも「虚構の時代」と重なり、内容においても「あえてベタに」物語回帰する好サンプルである。そして、より重要なのは物語回帰が引き起こす異様さを描き切っていることだ。

 

物語の要約を兼ねながら、論を進めていこう。

 

 

ハリー・タスカーについて
 アーノルド・シュワルツェネッガー演じるハリー・タスカーは、コンピュータ会社のセールスマンと大統領直属の国家保安組織所属のスパイという二重生活を送っている。彼はあくまで平均的なアメリカ人生活を志向し、妻と娘がいる。家族に対して軽々しく「私はスパイだ」と公言するわけにはいかない。ハリーは律儀にも自分がスパイであることを隠し通す。それゆえ、何も魅力のない普通のセールスマンである(と思われる)父を家族は嘲笑する。家庭環境は散々である。

 その「散々な家庭環境」のさらなる悪化によって、状況は決定的に変化する。それは妻であるヘレン・タスカ―の浮気未遂に結実する。 

 

ふまじめなハリー・タスカー

 あろうことかヘレンの浮気相手は自らをスパイと騙る軽薄な男だった。激怒したハリーは、スパイ捜査と偽り、組織の力を使ってヘレンの浮気を調べ上げる。結局のところ、ヘレンは自称スパイと性関係を結んでいないことが判明するが、ハリーの怒りは収まらない。ハリーはヘレンを尋問室に連行し、本当に夫を愛しているのか問いただす(なお、この時、ハリーはミラーガラスの向こうにいるので、ヘレンはハリーの姿を見ることはできない)。ただ意外にも、ヘレンは夫への愛を告白しハリーは落ち着きを取り戻す。そして、頭を冷した彼は、そこに思わぬ収穫が隠されていることを見逃さなかった。

 それは、ヘレンがスパイという大きな物語に強く惹かれているということだ。自称スパイにあっさりと騙されたことが象徴するように、彼女は、国家のために命を懸けるという前時代的な物語にご執心だったのだ。ヘレンの所望を察知したハリーは、彼女に対し、スパイ捜査に協力して欲しいとの虚言を吐く。妻に課せられたミッションはなるべくセクシーなドレスを着てホテルに潜入し、部屋で待っている「ある男」を誘惑するというものだ。もちろん、「ある男」とはハリー自身であり、そこで自分がスパイだとカムアウトし、夫婦の愛を取り戻すというのがハリーの腹である。

  ヘレンは指令に従い、というかノリノリでホテルに到着する。スパイさながらミッションを遂行し、「ある男」の前で下着姿でポールダンスを踊る。ここで一度踏みとどまろう。ハリーが犯した二度にわたる職権乱用、この公私混同は考慮に値する。先ほど述べたようにハリーは律儀にも二重生活を守ってきた。一方では、平均的なアメリカ人としての私的な生活を、他方では国家プロジェクトであるスパイとしての隠匿かつ公的な生活を。

 しかし、今のハリーはふまじめさに満ちている。ハリーは、私的な夫婦間の愛の問題に、公的なスパイ活動という職務を混入させることで、私的な問題の解消を試みる。まじめであったはずのハリーがやることとは到底思えない。

 

神学者ハリー・タスカ―

 ハリーの職業意識の希薄さは彼の本音を浮き彫りにしている。他のスパイと同様に、彼もまたスパイという大きな物語を信じていない。厳格な公私の区別など、既になし崩しにして構わないことを彼は十分に知っている。『トゥルーライズ』のスパイ達には奇妙な浮遊感が漂っている。実際、 ケイトのダンスシーンまでに具体的なスパイ活動はほとんど描かれていない。冷戦後、いわゆる「歴史の終わり」的な資本主義の完全勝利の「後」で、不安定に生きるスパイ達の日常を私たちは覗き込んでいる。 

 少し整理しよう。ハリーによるスパイの私的利用が明らかにしたように、彼もまた、本当は、スパイという大きな物語を信じていない。よって、公私の峻別を遵守する=まじめなハリーは、すでに再帰的な判断のもとでその態度を選択しているということになる。彼は歴史の終わりにおいてスパイ的慣例を保守すること、つまり、「あえてベタに」信じることを選択した。しかし、いや、それゆえに、ただ「ベタに」のみ信じるヘレンを引き寄せてしまう。「あえてベタに」信じるという選択は、単なるベタな信仰へと容易く転化する。 

 この点については少し説明を付け加える必要があるだろう。「あえてベタに」信じることが公私の峻別=まじめという態度に現れる。ここまでは良い。しかし、そうであれば、公私の峻別の融解は「ベタに」信じるのではなく、「ベタに」信じないへと向かうこともあるのではないか。しかし、それはあり得ない。ハリーが「あえてベタに」信じるその瞬間に、相対化した世界で、ただ信仰のみによって立つことを選択しているからだ。それは「ベタに」信じること(神学)と同型であり、すでに神学へと足を踏み入れている(否定神学が神学であること)。「ベタに」信じるヘレンの一押しによって、ハリーはその全身を物語に委ねてしまう。 

 

 操転するハリーと『トゥルーライズ

 さらに物語を進めよう。示し合わせたように、ハリーとヘレンのいる部屋へとペルシャ系テロリストが襲撃を仕掛ける。映画はベタなスパイ物語へと降下していく。私見だが、最初私はこのテロリストをハリーの妄想だと錯覚した。『トータルリコール』を想起させるように、このシーンはハリーのパラノイア的な症候にどうしても見える。もしそのように解釈するならば、それは映画「トゥルーライズ」自体の存在論的根拠がハリーの自意識へと委託されたということである。つまり、この襲撃以後、ハリーと映画『トゥルーライズ』は常に共犯的であり、映画=世界と同一化したハリーはその全能感ゆえ操転する。

  ペルシャ系テロリストという点に注視しよう。『トゥルーライズ』においては、冷戦後の「敵」として中東が選択された。彼らの目的は、ペルシャ湾における米軍の即時撤退であり、イデオロギーの相違に力点はない。また、その背後には、テロリストを支援する古美術商のジュノ・スキナーが居座る。彼女はネオリベ的なものを象徴している。例えば、彼女はこのような台詞を吐く。

 

あいつら(テロリスト)は資金を持ってて私も大金を稼げるのよ。

やつらの主義主張なんて無関係、あなたの主義も―無関係。

 

 ネオリベノンポリだと主張するつもりは更々ないが(それが容易に国家主義と結びつくように)、この二通りの人物は明らかにポスト・冷戦における「敵」であることを強調される。 しかし、そのような生ぬるいノンポリ環境を、ベタに物語回帰したハリー=『トゥルーライズ』は許さない。二人の共犯によって、テロリスト達が甲斐甲斐しく大事にするミサイルは「ソ連原子力爆弾」へと変化を遂げる。物語世界はイデオロギーが最も快活に機能した冷戦期へと無理やり引き戻されてしまう。イデオロギーの空所に補充される過去の遺物。それは、ネオリベコミュニストへと見立てるような法外な矛盾をも可能にする。 

 

 

ソ連原子力爆弾」の本来的使用法について

 やや補足的になるが、重要なので付け加えておく。

 すが秀実によれば、ソ連における原爆開発は、実のところアメリカとの平和共存路線を狙う張り子の虎である*3。その日和見主義的な原爆保持はのちに中ソ論争を巻き起こす火種となるのだが、しかし、『トゥルーライズ』においては、実際に(変な言い方だが)原爆は撃ち落とされる。つまり、言い換えれば、抑止力として「あえて」保持していた原爆が「ベタに」使用されている。『トゥルーライズ』において原爆が辿った軌跡は、ハリーにおける単なる「ベタ化」への移行と相似形を描く。「あえて」という留保など吹けば飛ぶようなものだと、『トゥルーライズ』ではハリーと原爆を通して二重に語られる。それでは、ベタに投下された「ソ連原子力爆弾」はハリーに、そしてアメリカ全土に致命傷を与えることができるのか。

 単刀直入に言おう。それは不可能である。なぜなら、ハリー=『トゥルーライズ』は、歴史の終わり=資本主義の完全な勝利という「物語」をもう一度繰り返せば良いからだ。そして、たとえ原爆が発射されたとしてもアメリカは無傷であったという反実仮想上における変更を同時に付点していることを見逃してはならない。このような「手直し」はこうあったかもしれないという恐怖によって支えられる。それはアメリカの原爆恐怖症を浮き彫りにしているのではないだろうか。隠すことはそれを露わにすることでもある。

 

最後に

 『トゥルーライズ』は、ハリウッド的であることを自己目的的に追求するかのごとく展開し、閉じていく。この予想より長くなってしまった文章も終わりにしなければならない。

 ベタな物語回帰は避けようがない。しかし、その物語にはいくつかの変更がある。その変更点に漂う恐怖の匂いを感じ取ること、このことがある種、露悪的に物語を演じて見せたキャメロンの処方箋ではないだろうか。「虚構の時代」に留まることは恐怖について考えることである。

 

 

*1 柄谷行人『言語・数・貨幣』講談社(1983)

*2 宇野常寛ゼロ年代の想像力』ハヤカワ文庫(2008)

*3 すが秀美『反原発の思想史ー冷戦からフクシマへ』筑摩書房(2019)

 

ジェームズ・キャメロントゥルーライズ』    

    ライトストーム・エンターテインメント(1994)

 
 

『言の葉の庭』論

 

 

 新海誠について書いてみようと思ったのは、年下の友人のアドバイスによるものだった。彼の意見を要約すると「お前のブログつまんねえよ。支離滅裂だしよ。てかもっとみんな見てるやつ書けよ馬鹿。あれだろ?メジャーなやつで書くの怖いんだろ?」といったものだ。実際はこの内容を1時間にわたって詰問された。もちろん、私のブログが面白くないこと、その責は私にある。けして扱った映画に問題があるわけではないだろう(今考えれば『グレムリン』も『大日本人』もそこそこ有名だと思うが、その時の私はもう早く家に帰りたいなぐらいしか考えられなかった)。

 しかし、そこまで言われて何も言い返さないのも癪だった。何か形勢逆転のチャンスはないか。彼の流れるような叱責に生じる一瞬の間隙、そこに特大の反論をぶつけることに私は集中した。そして、その瞬間は訪れた。

 「じゃあ何を扱ったらいいんですか」声は震えていた。ただの逆ギレだった。だが、その返答は私の反論を見越していたかのように即座に発せられた。
 「あ?そんなん決まってんだろ。新海だよ」

 

 

 

言の葉の庭』論

 はじめに新海誠作品に共通する主題を確認する。目新しいものは何もないので飛ばしてもらって構わない。もちろん、それはすれ違いである。新海作品に登場する男女は柄谷ばりのコミュニケーションの不可能性に悩まされる*1。柄谷という固有名詞をやや唐突に思うかもしれないが、そこにはなにも飛躍がない。私は国立新美術館の「新海誠展」で、新海の影響を受けた本として『日本近代文学の起源』が挙げられたのを確認している。

 新海作品のキャラクター達は、他者とのコミュニケーションの不可能性、言語ゲーム、これらのある種古びた問題設定を徹底的に勉強し尽くしている。互いを強大な他者と見積もり合い、命がけの飛躍を繰り返す男女はすれ違うことしかできない。すれ違わないとしたらそれは奇跡的といっても過言ではない。

 だとすれば、本質的に新海誠作品とテクノロジーは相性が悪いのではないか。
周知のように私たちはつながりすぎる世界に生きている。私たちはネットによって誰とでも0距離でつながることができる。もちろん、簡単にコミュニケーションできるからといってそれが通じ合っているとは限らない。しかし、その試行回数はテクノロジーによって爆発的に増加した。私たちの世界は他者との「距離」を削減するのに成功したといえる。

 それでは、そもそも他者の成立自体が困難な世界で、柄谷的な他者を継承するにはどうすれば良いのか。新海の解答は、「距離」を無理やり捏造する、というものだ。

  例えば、『ほしのこえ』では、男女は8光年彼方へと引き裂かれる*2。そのような状況ではメールを受信するのに9年間の時差が生まれてしまう。新海がこのSF的なガジェットを使用したのは、おそらく「距離」を捻出するためだ。コミュニケーションを妨げる制限や障害のようなものを意図的に導入しなければ、その恋愛は既にリアルではない。(しかし、そうであれば『秒速5センチメートル』における東京―栃木間の「距離」はあきらかな主題的後退ではないか*3)。

 また、新海作品に現れる「距離」は時間的差異や空間的差異だけではない。二次元と三次元との、キャラクターと背景との、キャラクターと観客との共役不可能性、つまりインターフェイスの次元での「距離」も観測することができる*4。このように、新海は「距離」を設定することで周到につながらなさを捏造する。そこに、リベラリズムグローバリズムへの抵抗を企てる新海の保守性を見出すこと不可能ではない。

 『言の葉の庭』についてだった。

 『言の葉の庭』においても「距離」の主題は健在だ。それは一見、先生と生徒という関係に現れている。この先生と生徒という関係は『探求Ⅰ』における言語ゲームのたとえ話そのままであり、その意味では最も柄谷に忠実な作品といえるのだが、しかし、偉大な保守作家新海はそれを巧妙にずらしている。そのことに触れる前に、簡単に物語を要約する。

 高校生のタカオは靴職人を目指しバイトと靴製作の勉強に日々追われている。タカオは 雨の日には必ず一限をサボり新宿御苑へ向かう。しかし、その日はいつもと違い、ビールを飲み古文を唱える怪しげな女がいた。後にわかるのだが、その女はタカオの通う高校の国語教師ユキノだった。ユキノは女生徒によるいじめと、同僚との破局により休職していた。ユキノと仲良くなったタカオは、そのいじめた女生徒にびんたを食らわす。その後、いじめ女生徒の連れにボコられたタカオは新宿御苑でユキノと再会し、雨が降りしきる中、ユキノの自宅へと向かう。

 タカオは、ユキノが自分の通う高校の教師であることを後天的に発見する。タカオははじめ、ユキノに対し朝から飲酒する変な女として接していた。しかし、ユキノを学校で目撃することでその関係性は変化してしまう。 ユキノからユキノ先生への不可逆な転身は、タカオに疎外をもたらす。つながることのできたユキノはもういない。ほとんど怨念にとりつかれたタカオは、物語の終わり近くで、ユキノ先生に罵声を浴びせ痛めつける。

 ユキノ先生からユキノを取りもどすというタカオの願い、しかし、ここには倒錯が生じている。そもそも、タカオが通じ合えたと信じるユキノとは何者なのだろうか。

 例えば、タカオの振るったびんたについて考えてみよう。タカオは女生徒に暴行を加えるが、それは単に義憤に駆り立てられたからではない。事態はもう少し入り組んでいる。もしいじめが存在しなければ、ユキノ先生はユキノとしてタカオの前に現れることはないからだ。ユキノ先生からユキノへの転身は、女生徒によるいじめによって起こる。そして、タカオはその痛みから生まれたユキノを愛している。タカオとユキノの恋愛はユキノ先生の痛みを前提にしなければ成立しない。

 ユキノ先生の痛みをなかったことにはできない。しかし、ユキノを愛するという意志は、ユキノ先生の痛みに対する肯定へと転化してしまう。そのことにタカオは懊悩する。悩みに悩みまくり、混乱極まるタカオは女学生をびんたしユキノ先生に罵声を浴びせるという暴挙に出る。

 これより加害者タカオは誕生する。しかし、そんな困窮した状況にこそ、タカオは活路を見出していたのではないか。タカオは、ユキノ先生が過去に受けた痛みに類する暴力を無差別に繰り返す。ユキノ先生がユキノとなる瞬間を再演することによってユキノを取り戻そうとする。過去へと遡り、ユキノに生じた倒錯を乗り越えること、これがタカオの企図だ。

 『言の葉の庭』における「距離」とは時間である。先生と生徒の「距離」は本質ではない。もちろん、現在から過去に受けた傷に到達することはあまりに不可能だし、それを語るのは荒唐無稽に響く。 しかし、タカオはそれを願う。物語ラスト、タカオがユキノ先生に罵声を浴びせた後、二人は抱き合う。奇跡的にタカオは過去に到達し、ユキノ先生は再びユキノへと転身する。タカオは跳躍に成功したのだ。歴史のタガが外れる音を残して。

 

*1柄谷行人 『探究Ⅰ』 (講談社学術文庫、1992)

*2新海誠ほしのこえ』(配給 MANGAZOO.COM 2002)

*3新海誠秒速5センチメートル』(配給 コミックス・ウェーブ 2007)

*4石岡良治、三浦哲哉編 平倉圭、土居伸彰、入江哲朗、畠山宗明著『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』(フィルムアート社、2018)

 

新海誠言の葉の庭』 (製作 新海クリエイティブ、コミックス・ウェーブ・フィルム、2013)

 

 

『大日本人』論

大日本人』。前エントリーで扱った『グレムリン』同様、隠喩ないし換喩にまみれた映画だ。松本人志が演じる大佐藤大自衛隊を、そして、永遠に主体化できない戦後民主主義男性を、ウルトラマンを彷彿とさせるスーパー・ジャスティスはアメリカを、それにボコボコにやられる赤い獣は朝鮮半島や中国を、といった陰謀論的見立てを、私たちは脊髄反射で理解できる。 

しかし、そもそもなぜこんなにもわかりやすいのか。示されるものとその意味の対応がなぜこうも明瞭なのか。そのことを考えるために、『オーバー・ザ・シネマ―映画「超」会議』での畠山宗明の発言を少し長くなるが引用しよう*1。

 

(不完全了体の時間について)まだうまくまとまっているわけではないんですが、一つには推論が発動する、せざるを得ないような時間ということです。(中略)映画理論ではそういう迷いの持続を切り落として、もの=実在の認知が瞬時に成立する、と考える。しかし、私たちは実は映画を見ているとき、何が見えているかはっきり理解していることのほうが、実は少ないと思うんですね。
もうひとつ重要なのは「事後性」ということです。(中略)20世紀がもたらしたのは、わかっているものが謎になる、見えてしまったものに事後的に問い訪ねざるを得ないという不安定な状態だったと思うんですね。陰謀論というのはこうした苦しい状態に対するバックラッシュ(あるいはにもかかわらず瞬時に「わかって」しまうものとしての類型)として考えることができるのではないか。

 

 

 陰謀論的映画には「不完全了体の時間」、つまり、そのものが何を意味しているか判断することのできない時間が存在しない。そこには「不完全了体の時間」を誘発させる20世紀的な「不気味なもの」がない。陰謀論的映画はむしろ「映画理論」に似ている。陰謀論的映画は「映画理論」同様、映画におけるリニアな時間の進行とは別個に意味の決定が行われるからだ。先ほど述べた『大日本人』における直接的過ぎる隠喩ないし換喩(大佐藤大自衛隊の対応、スーパー・ジャスティスとアメリカの対応といったような)が陰謀論的特徴を帯びているというのは明白だろう。私たちはそれが何を意味しているか瞬時にわかってしまう。 

 確かに、そういったわかりやすすぎる『大日本人』における構造の幼稚さは疑いようがない。80年代であれば物語批判で一発で片付けられるだろう。しかし、私はこれを肯定したい誘惑にかられている。 

  その理由は前回の『グレムリン』論と関連している。

 

ontei.hatenablog.com

 


 私はそこで、『グレムリン』の分析を通して、クリスマスがアイロニストになることと成熟を同一化させる祭りであると結論付けた。 もちろん、そういった成熟観は既に陳腐である。渋谷ハロウィンは成熟の虚構性が完全に剥ぎ取られたことを象徴する事件だった。 しかし、そんな時代でも成熟「のようなもの」が存在しているのではないか。もしその萌芽があるのなら記述しなければならない。私見だが、『大日本人』には確かに別様の成熟「のようなもの」が描かれている。ただ、『大日本人』におけるそれは一般的な意味での成熟とは決定的に異なっている。

 それは巨大化である。大佐藤大が獣と戦うための術はただでかくなるだけである。『大日本人』における巨大化はその縮尺の変化のみであり、それはウルトラマン仮面ライダーのような「変身」とは切断されている。 この点は注目に値する。例えば、宇野常寛ウルトラマン仮面ライダーの「変身」を戦後民主主義男性における成熟の問題と捉えるように、「変身」と成熟には強い連関がある*2。

 しかし、巨大化した大佐藤大の顔面は、そのまま松本人志の顔面と連続している。大佐藤(=松本人志)は変身=成熟しない。そうした大佐藤の非-成熟は有名な大塚英志による「アトムの命題」とも異なる*3。「アトムの命題」に簡単な説明を加えると、それは成長(成熟)できない記号的身体を通じて、逆説的に人間的な成長(成熟)を描くという戦後漫画特有の主題である。 

 『大日本人』における非-成熟は単に成熟しない。それは、そもそも成熟を目指さない。大塚にあっては非-成熟は未-成熟として成熟の問題系にかすめ取られるが、『大日本人』の非-成熟は非-成熟として自足する。 この新しい形態はおそらく冒頭の陰謀論と関係がある。陰謀論はその感染者にとって一つの真理である。それらは真理であるからこそ真理であるという形で、そして次にはその再帰性を忘れて、あらゆる現実と独立して生き続ける。陰謀論者は陰謀論を糧にして自らの身体を極限まで巨大化させる。

 最後に、簡単な思考実験のようなものに付き合ってもらいたい。

 ここに巨大化した身体と成熟した身体がある。果たして私たちは、本当にそれらを見分けることができるのだろうか。

 

 

*1 石岡良治、三浦哲哉編 平倉圭、土居伸彰、入江哲朗、畠山宗明著『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』(フィルムアート社、2018)

*2例えば、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎、2011) における「皮肉にも、男子の成長願望とナルシズムを『正義』という回路によって記述することを商業的に宿命付けられたヒーロー番組」といった発言

*3大塚英志アトムの命題手塚治虫と戦後まんがの主題』 (アニメージュ叢書、2003)

 

松本人志大日本人』(吉本興業、2007)

 

 

『グレムリン』論

 

 12月25日。クリスマス(日付を越えてしまったけど)。
せっかくだから、クリスマスにまつわる映画によってこのブログを始めたいと思う。
クリスマス映画の名作は数あれど、個人的には1984年の『グレムリン』は外せない。なぜなら『グレムリン』は、クリスマスとは何かを詳細に描いたメタクリスマス映画だからだ。

 あらすじを簡単にまとめよう。

 舞台はクリスマス。発明家のランダルは、息子ビリーへのクリスマスプレゼントとして、チャイナタウンの骨董商から、モグワイという生き物を譲り受ける。モグワイを飼うには「3つの約束」が必要だ。光に当てないこと、水にぬらさないこと、12時を越えて食べ物を与えないこと。ビリーはこの3つの約束を不意に破ってしまい、モグワイは残虐なグレムリンと化し分裂を繰り返す。増殖したグレムリンたちはビリーの町を襲う。

 良く知られるように、電化製品に潜むグレムリンは日本人の隠喩であるという半ば都市伝説じみた解釈がある。都市伝説とは言ったものの、実はかなり強力な説得力のある解釈だ。例えば、映画館でディズニー映画を鑑賞し、ポップコーンを食べるグレムリンたちの姿は、自動車や家電を売りつけ、アメリカ人の日常圏を侵食する日本人をたやすく連想させる。そして、そもそも、後にグレムリンと化すモグワイの購買先自体、チャイナタウンだった。

 確かに、『グレムリン』に、エコノミックアニマルに対するアメリカのゼノフォビアが刻まれているというのはおおむね間違いではないだろう。その説を後押しするように、スーパーマン国産車を愛し続ける時代遅れの老人や、国家的プロジェクトであった「発明」の矮小化を体現する主人公の父親(家庭用品しか発明できず、しかも失敗続き)といった「強いアメリカ」の失墜を象徴する人物が周到に配置されている。以上から、グレムリン=日本人説の有効性は十分に立証されたように見える。しかし、それでこの映画をとらえられたといえるだろうか。
 私はこの映画に少し違う解釈を導入したいと思っている。そのためには、ビリーの恋人であるケイトの存在に注目する必要がある。

 ケイトはクリスマスを嫌悪している。その理由を要約するとこのようなものだ。ケイトが幼い頃のクリスマス、ケイトの父親は娘を喜ばせるために、サンタクロースの仮装をして自宅の煙突に隠れようとした。しかし、誤って足を滑らせて死んでしまった(ほとんどギャグである)。ケイトは父の死と同時に、サンタクロースが実は存在しないという盛大なネタバラシをくらってしまったのだ。

 ここで、このブログをもし読んでいる人がいるなら思い出してほしい。あなたは「いつまでサンタさんがいると信じてた?」と誰かに尋ねたことはないだろうか。この言葉が意味するのは、サンタクロースの存在を認めるか否かによって、子供と大人が切断されるということだ。そして、より重要なのはサンタクロースの不在を知ってしまったとしても、大人は声高にサンタクロースの不在を喧伝しないということである。むしろ、サンタの実在に疑いの目を向けるのは子供の方ではないだろうか。

 クリスマスは、この点において、他の祭りとは決定的に性質が異なる。一般的な祭りが日常から非日常の移行、つまり、大人が子供へと降りることであるのに対し、クリスマスは子供の前でアイロニカルに信じ続ける大人であることを要求する。クリスマスは成熟の祭りであり、大人は大人でなくなることを禁じられている。

 もう一度、ケイトへと視点を戻そう。ケイトに起こった悲劇とは、父親の死とサンタクロースの死を同時に迎えるという、突発的な急成長による成熟の失敗である。ケイトは、本当に、大人になることができず、クリスマスという虚構性を身にまとうことができない。それは、やや飛躍的に言えばアイロニーを持ちえないということだ。

 つまり、『グレムリン』は、あえて虚構を信じるアイロニカルな態度の選択と成熟を結びつけるクリスマスという装置を観測している。『グレムリン』に描かれる強いアメリカの失墜は、クリスマスの失墜でもある。

 最後になるが、今日こういうニュースが流れていた。ドナルド・トランプが、7歳の少年に「まだサンタは信じてる?」と述べたそうだ*1。繰り返すが、クリスマスは成熟のための祭りである。

 

*1: 

www.newsweekjapan.jp

 

 

追記 

クリスマスを日常性の再強化と捉えなおすなら、2018年に起きた渋谷ハロウィンに顕著なクリスマスの相対的なプレゼンスの低下は何を意味するのか。

渋谷ハロウィンが祝祭性を帯びているのは疑いようがない。しかし、それは現実におけるという留保がつく。仮装によって虚構性を身に着けながらもトラックの転倒という唯物的な行為に向かったのは、虚構が現実に負けた瞬間だったのではないか。

 

 

ジョー・ダンテ 1984 『グレムリン』 アンブリン・エンタ―テインメント